昭和43年6月13日 朝の御理解 【入力者:岡村和一郎】


御神訓「信心する人の真の神徳を知らぬこと」


(最初のほうは録音不良で聞き取れず・・・途中から)
 そういう意味で、私どもはそういう神徳の中に生かされてあるんですね。それが分かれば、神徳が分かる(?)。神徳というのは、自分自身が頂いて頂いて、(?)。自分自身が頂かなければ分からない。話でも聞いたぐらいなことでは分からない。
 いかにご神徳の中にお互いが生かされておっても、神徳(視界?)にたまめいておる中にありましても、芯がなかだけ、なからねば火は灯らんとおっしゃる。自分自身の心の中に芯があり、自分自身が神徳に触れていかなければ、これが真の神徳じゃというのは、人から聞いただけじゃ分からん、それじゃ分からん。
 知るとか知らないとかじゃなくて、信心する人の真の神徳を頂けんの、ことということじゃなかろうかと、こう思うですね。知るだけではない、信心する人の真の神徳を頂かんでは、せっかく信心さして頂く者が、惜しい。

 「おかげは和賀心にあり」。たしかに、この和賀心の、おー、持ち方一つで、えー新たなおかげが展開してくるんですね。おかげは変わってくる。もう自分の心の持ち方一つで。(?)微妙なもんである。
 それはよく私があの、お花を入れる、ね、申し上げます。ね。ちょっと向きを変えただけで、その花が生き生きと生きてくる。ちょっと葉を一枚取っただけで、その花が生きてくる。ね。ちょっと高低をつけただけで、その花が生き生きしてくる。
 というようにですね、私どもがね、もーうどうしておかげが受けられんじゃろうか、どうしておかげが受けられんじゃろうかばっかり言うておったんでは、自分の心のあり方というものを、ちょっと変えてみるといい。で、本気で自分自身を、(あの?)見極めてみるということ。
 それをなからねければ、おかげは(ない?)。わが心の動きがおかげに(なる?)。例えば、会社に(いつも行っておる?)としましょうか、一生懸命に働きよる。ね。ところが、あのー、一生懸命に働いておるんですけれども、給料が上がらない、どころか、こう首のほうが危なくなって(きておる?)。いや、(?)。
 ということは、どういうことかと言うんでしょうか。いくら一生懸命お参りしてもです、いくら一生懸命お参りさして頂いてもです、ね、(?)というのは、それと同じことが言える(?)。
 第一ね、その会社に入れば、その会社の方針というものを知らなければいけない。その会社の生き方というのがあります。ね。その生き方を自分がまず知っておく、その生き方の、に沿うて一生懸命になっていくならば、ね、会社ではいよいよ大事な人として認められ、いよいよ給料も上がっていくだろう。ね。だんだん、いうなら位も上がっていくだろう、ね。
 一生懸命やりよるけれども、ね、むしろその方針とは反対の方へ、逆行する。まあほんとに一生懸命働いてもらうけれども、ね、働いてもらやあ働いてもらうほど会社のためにならん、というようなことだったら、ほんとにやはり、うーん、会社としても困る、自分のも働き損ってことになります。
 信心でも同じことです、いくら日参り、お参りできましても、どげん修行して頂きましても、神様の心に沿うた信心ができなければね、そりゃ神様なればこそ、ね、おかげも下さる、けれども、これでは今日私が言う、真の神徳には触れられないと、こう。(沈黙)
 どうでしょうかね。皆さんが、こうしてお参りになられるが、自分のお参りに内容というものが、ね、会社の方針に沿うておるだろうか。天地の親神様の、ね、こうあってくれよと言うてござる、その心に沿うた生き方で信心がなされ、修行をなされておるだろうか。
 昨日、おー、毎月、えー、金光教報というのが、(いわば)教会に送ってまいります。まあ教会の、おー、(?)お道の動きのことが詳しく出ております。その中に、えー(ある日?)の教話というのが一つ…。ある先生のお話、3年間、一里(もある?)道を、(毎日?)、もう降っても照っても参って来る婦人がおる。それは主人が非常に酒乱である。(ふつう?)とってもいい人なんだけれども、お酒が入るともう暴力を振るう。
 そりゃ狼のように、ね、それが苦しゅうてたまらんもんですから、お神様におすがり(しようて?)、3年間毎日毎日、日参(?)。ね。一生懸命にお参りさして頂いたけれども、一向におかげ頂かん。
 ある晩のご祈念の時に、ご祈念をしながら、フッと自分の心の中に、その婦人が感じたことがあった。それがね、私が(どうぞ?)主人が酒をねえ、飲みますから、酒を飲まんようになるように、酒さえ飲まなきゃおもしろい(?)、酒さえ飲まなければ、酒さえ飲まなければというので、どうぞ酒を断ちますように、酒がだんだん減ってまいりますように、ていうてお願いした。
 して、続けて3年間。その願い方が間違うておったと気がついた。あれほど好きな酒だから、ね、主人があれほど好きな酒だから、お酒を頂いて(もらわな)ならんが、頂いてもらうということだけはね、よいから、神様、その頂いたお酒によって、ね、乱れたり、乱暴したりするようなことがあっては、神様に対して相すいません。どうぞ、そこのところをおかげ頂かしてくださ(れ?)、て気づかして頂いたら、そういわれるようになり、それが、はああ、ほんと3年間の願いが間違っておったことに気がついた。
 もう酒を飲むなとは願わないで(?)。だから、この、んなら、願いがですね、一生続けられたって、例えば神様は聞いてくださらなかったことになるでしょう。ね。たしかに、おかげは和賀心にですね。ね。
 あれほど好きな酒だから、やめれ、というような、いわばひどい願いをしておったことが間違い。あれだけ好きな酒ですから、ね、うれしゅう、たのしゅう飲んでもらう。ね。ただし、その後が、ね、気分ようおかげを頂くんではなく、ではなくて、乱暴になるというところだけをお願いさして頂いたら、チッ(←舌か口を鳴らす)(たしもの?)好きであった酒がだんだん嫌いになってから、しまいには飲まんようになる、というおかげを受けたという話が(ございました?)。ね。

 3年間は、(なら?)会社に勤めておっても、会社の方針に沿うてなかったらいかんですよ。ね。そこで、会社の方針に、いわば沿うて、ほんとな感謝の、神様の喜んで頂けるような、ね、社長さんが喜んでくださるに違いないような思い方に気がついて、そこから、ね、おかげが受けられると、というおかげ話なん(でした?)。
 私達がだんだん(?)頂いて、そういう体験は、その分かるところが分かれば、おかげを受けるということを体験されてい、いっておられるですね、皆さんが。これは神様の心に沿うての、そのー、の願いに沿う、おー、その氏子が願っておる願いが、まあ合致した。ね。
 ね、ですからそりゃほんとに有り難いです(よね?)。そういうい、意味での、まあ分からせられ方によってですね、えー、おかげを受けるということ。(?)←※何か言ったかも、いや、言ってないかも…。
 ほんとに尊いんですけどもね、これだけではね、あのー、ご神徳には触れていかれない。おかげには触れていかれる。だからまず、おかげを受けなければなりませんから、まずおかげを受けるためには、いわゆる、おかげは、あるおかげの、おー、あるもなきもわが心、いわゆる、自分自身の心のほんの使い方一つじゃということなんです。ね。
 そすと、ご神徳を受けていくというのはです、ね、おかげのあるもなきもわが心、一心に願え、おかげは和賀心にあるという、天地書附に現れてくるところの和賀心。これは自分自身の心ではなくて、ね、自分自身の心がですね、どのような中にあっても、それが、和らいでおれれる、賀んでおれれるという心。
 だいたい合楽では、この、ここを、(もう?)皆さんに聞いて頂いておるように私は思いますね。ね。例えて言うなら、その話を(かじったら?)、合楽の場合は、ならどんなふうになるのかとか、そういうふうに気づかせてもらって、おかげを頂くということと同時に、ね、おそらくその3年間の信心辛抱の間がですね、ご神徳を受けていけれる、いわば筋合いというか、それに沿うた信心修行がでける、のじゃないかと、こう思うとる。

 いくら願ってもすがっても主人は一向に改まりません。けれども、おかげで信心ができます。ね。そこに、翻然として3年ぶりに気がついておかげになるということ、それ(はね、やっぱ?)、けれどもその気がつかなかってですね、その3年間のその、おー、一生懸命の信心の中に、ね、だんだん分からせられることは、とてもとても、主人がこういう、いわば悪い癖を持っていなかったとするなら、私は金光様のこの字も知らんで済んだ。済んだじゃない、えー、で、しまいだけは(?)かったのを、ね、この神様知らして頂いた、分からして頂いたのも、この主人の酒乱のおかげであった。
 そのことは難儀なことなんだけれども、おかげで、おかげで修行ができます、おかげで信心ができます。これが和賀心。で、和賀心は、それは天地書附に現れてくるところの和賀心。ね、和らぎ賀ぶ心。 分かるところが分かりゃおかげになるという、これはわが心、自分の心。ね。

 そういう意味で、やはりあのー、おー、ご信心を、おー、あの特に、そのーこの中村さんあたりの信心は、非常にそこんところの悟りが早いですねえ。やはり長年の信心がありますから。もうここんところが分からして頂いたらおかげ頂いた、ていうよな体験をたくさん持っておられる。ね。
 あることを一生懸命お願いさしてもらいよる、もう一生懸命、一心不乱にお願いさしてもらわにゃ、ところが、神様から、ね、これほどのおかげを頂きながらね、まあだおかげが頂きたらんように思うておるという意味のことを頂いた。一心不乱のご祈念の中に。
 翻然として、自分の心の中にね、中村さんの心の中に、そりゃおすがりするばっかりやけん、ほんとに、まあだおかげの頂きたらんごと思うて、一生懸命願うておることが相すまんと気がついた。それで、神様、相すいませんという、願いがお詫びに変わった。おかげで道が開けた、というような、あのー体験ですね。
 これは、(?)そういうおかげは自分の心というね、わが心という、いわゆるお花の活け方も、活け方一つで生きもすりゃ、死にもするという、そういうようなものを身につけていかなければならんけれども、それはどこまでも、(?)ね。これはあのー、ご神徳にはならないと思いますね、真の神徳にはならない。おかげにはなる。 だけれども、これが、やはり、やっ、必要どころではないの(でしょうかねえ?)。もう絶対必要。ね。心の使い方、頂き方、ね。
 だからこの、最近の、おー、教団のあり方というと、まああんまり、えー、変な言い方ですけれども、だんだんですね、そういう、おー、そういう生き方ですね、例えていうならば、おか、おかげは自分の心にあり、といったような意味でのことが非常に強調されてる。けども、それがね、真の神徳に触れていくといったようなところが、非常に希薄、薄くなっていっておるという感じがします。ね。
 例えば、その3年間の間やっぱり苦しいんだ。けど分かるところが分かったらおかげになったんだというような、苦しいことのほうが人間的だと。この苦しい中に、有り難い心なんかを開く話なんかは、こう何か知らんけれどもこう、おー、この世じゃあんまり不自然だというふうにしてから、しかも、この金光教報なんかで(いうてこのこと?)話したんですけれども、もういうならば、教会専用の、専門の、おー、これはあの、おー、うー、う、ものであり、同時に金光様の先生達が読まないものなんです。
 ですから、どういう、例えば、いうなら、信者に聞かせられるとか、聞かせならないとかっていうふうであってもならんのですけれども、例え信者に聞かせなれないような話でも、これに載って(もいいはずです?)。ところが非常に一般的なっていうか、ね、いつも(?)。
 いわゆる、真の神徳なんかが現れる話をいたしますと、そういうのは、あー、そういう話はや、やめてくれといったような、あー向きがあって、その真の神徳には触れられない、触れられないような感じがいたしますね。
 この話を発表しておられる、あー先生も、ね、自分自身が非常に難儀、苦労をやっぱりしなさってある(から?)。けども、いつ金光様の先生をやめようか、もうこげなこつであっても一家のもんは立たれんから、役場になっても勤めようか、と言いながら、いうならご辛抱されておるうちに、少しずつそれが変わってきたと、いうように、この間はです、やっぱり苦しい。ね。
 それて、だ、だから、ちょっとその、そのーなんち言うと、お夢お夢のところでいろいろ分からせられてきてね。例えば、今私がお話しました、あの会社の、おー、おー、に勤めておる勤め具合というものがですね、会社の方針に沿うて勤めて、働いておるならば、会社でもだんだん認められる。けども、会社の方針に、いー、沿わずに、一生懸命頑張ったっちゃ、これではおかげ、あのかえって首になるかも分からん、といったような話は、この先生の話の中から頂いた話なんです。
 ですから、あー、それは結局、そうしておかげをだんだん頂いていく、もう40年にもなる教会ですが、おかげを頂いてい、いかれよる、うん、ね、らしいんですね。(だんだん?)おかげを頂いていかれよるけれども、これはだんだんおかげを頂いていきよるということであった、あの、今日私が、真の神徳を知らぬことという、真の神徳には触れておられないというような感じがするです。
 しかも、それがですね、いかにも人間的なように、苦しいなら苦しい、誰だって苦しいんです。というふうに言ったほうがです、なるほど苦しいんです。苦しいけれども有り難いというものがね、感じられない。ね。
 例えば、主人が3年間もお参りしようけども、おかげ頂かなかったけども、3年間の間に分からせられたことは、ね、「おかげで信心ができます」ということを分かっていく。(※咳)

 真の、真の神徳に触れていかなければならない。だから皆さん、こう、今、今のお話は私はたいへん大事なんですよ。自分の心の使い方一つで、おかげが、赤が白になるようなおかげになってくるですからね。 けどもです、そう、そのおかげだけではですね、真の神徳には触れられない、真の神徳を身に受けていくことはできない。
 そこで私は、その、なら、「信心する人の真の神徳を知らぬこと」と教えられるその御神訓がです、な、ま、神様、真の神徳を知るために、真の神徳を自分の身につけていくためには、なら、どういう信心をさして頂いたらおかげが頂けましょうか、という願いのもとに、御理解を頂きましたら、御理解31節と(※咳)32節を頂きました。ね。

 御理解31節を読んでみましょう。「信心する者は、木の切り株に腰をおろして休んでも、立つ時には礼を言う心持ちになれよ」。「女が菜園に出て菜を抜く時」は32節ですね。「地を拝んで抜くというような心になれば、おかげがある。また、それを煮て食べる時、神様いただきますというような心あらば、あたることなし」。 こういう生き方、こういうあり方になれば、神徳に触れていける。ね。例えば、31節の「木の切り株に腰をおろしても」というのは、世の中の一番、まあ役に立たないものです、ですねえ。かえって邪魔になるようなものですよね、木の切り株というのは。ね。
 けれども、それに腰をおろして立つ時には、例えば、私どもに日常生活の中に、「はああ、これは難儀な問題はほんとにいらんもんだけれども」ということがあるでしょうが。けれども、やはり私の前にその難儀な問題が現れてきたもんですから、ね、それを、やはり、有り難く頂かしてもらうというけいこに、合掌して頂いていこうというけいこなんです。
(※15秒くらい沈黙)
 女が菜園に出て地を、たい、天、大地を拝むような心になれば。お野菜一本頂くでも、頂きますという心あらば、ね、そういう意味で、食事する時に、頂きますという心あらば、あたることなし。すべての、いわば事柄なんですねえ。頂きますという、いわゆる、(ね、最近御理解いたしましたが?)一切の中に御の字をつけていくということ。ね。
 例えていうなら、病気(をいう?)ようなことですけれども、病気にかかったら、やはり「御病気」として頂くこと。いわゆる「御」をつけるということは、神様が下さるものだとして頂くこと。御の字をつけて頂いたら、障ることなし。
 私どもの糖尿病の具合いでも、ね、これがいつまででんようならんほうがよかという意味じゃないですよ、だから、いうなら「御糖尿病」である。ね。神様がこのようにしてから、私の命を大事にしてくれる、というようなお礼心がその次には頂ける。
 ね、ここになってまいりますと、結局、合楽で私が(明け暮れ?)言うておることになってくるんですね。ですから、合楽では、もうほんとに真の神徳を身につけていく、同時に、真の神徳を自分自身が現していく。ね。
 神徳、四海に遍く。神様だけが四海に遍いてござるのではない。天地の親神様だけが、そのお徳を、ね、宇宙全体に現しておられるのじゃない。それを自分自身も身に受けて、自分自身もそれを現していくということ。ね。
 例えば、合楽のご神徳が、これが四海に遍くようなおかげを頂いていくということが。ね。皆さんの一人ひとりがです、ね、皆さんの頂かれたご神徳が、ね、おかげになる。それが、それこそ四海に遍くようなおかげに、ね、大きい、ことですけれども、おかげを現していくということが、ほんと言うたら、お道の信心の、私は眼目であり、また神様がおかげをくれ、頂いてくれとおっしゃるのも、そういうところであるけれども、「信心する者は多いけれども、真の神徳を知った者が少ない」と言われるのは、このことだ。
 その証拠に、なるほど自分の心一つでです、いろいろお話を頂いて、心をちょっと向きを変えただけでおかげを頂いていくというようなおかげは、おかげは、(まいっちょ?)今度向こうにも一つあるんですね。
 なら、それはあの、お取次を頂いて、自分ないっちょん変わらんでもですよ、ね、自分の心はひとーつも変わらんでね。ね。やはりおかげだけは受けておる。こういうおかげが、まあいうならば、借金になっておるようなもんじゃなかろうかね。

 ですから、例えばです、自分、おかげは自分の心にある、わが心にあるとおっしゃるようなおかげは、これは現金でおかげを買うたようなもんじゃないでしょうかね。これは借金にならん。ね。
 けれども、それだけでは信、信用にゃならん。神様のご神徳にはならん。ご神徳に触れて(いくことはね?)。だから、合楽で言うておることは、もう一つ向こうのおかげ。いわゆるご神徳を頂くための信心。
 ならそして、なら、その、まあ(おかげ?)を3つに分けて申しましたから、1、2、3と、その3つ、1、2は要らんかというて、そうじゃない。ね。ただ、お願いをしておかげ頂くということも、願わなければおられないのであり、また自分自身の心が翻然として開ける、ここに、自分自身の心が救われる、助かっていく。ね。

 次には、ご神徳について。私は昨日この、教報の中にある「ある日の教話」というのを読ませて頂きながら、もう、おー、30年も、おー、30何年も前の話。私が14、5の時分であったとこう思う。
 まだ、あー、(酒屋の番頭?)に行く前です。(自由?)参加(?)。ある晩、夜のご祈念に善導寺にお参りさしてもらった。親先生が、あのー、お道の新聞をご祈念後に読んでくださった。その後、そのことがね、今でも忘れられない。私いつもだからその話をする。
 若い青年教師の方が、その方は(むねおや?)、親教会で修行しておかげで助かる。それで道の教師を、をと言われて道の教師になられた。本部を卒業したから布教に出られたけれども、何年経っても(道が開けない?)。お母さんと(?)、一生懸命その修行なさるけれども、道が開けない。
 そこでそれを見るに見かねて、ご本家の兄さんが、あん時見えられてた。ね。こうやって見ておって、たいへん難儀なようであるから、金光様の信、信心をね、やめよとは言わん。だから、一応、田舎の方へ引き上げて帰って来ると、山もありゃ畑もあるのだから、それを、お前の分け前だけを、を父親がやると言よるから、ね、しばらく百姓でもさせて頂いて、で、信心を続けたらどうかと言われた、時にその(?)の方が、あー、その兄さんに向かって言われたことは、「兄さん(?)、とても有り難い。有り難いけれども、この頃、もう益々こうしてし、修行が続きな、難儀が続けば続くほどに、ね、もちっと修行がしてみたい、もちっと苦労がしてみたい、という気持ちに、兄さんいっぱいです」ち(笑)いわっしゃった。
 でもお前、そのこ、そんなに思とうんなら、私がなんと言おうか」と言うて帰られたという話。ね。もうそういう難儀魂魄の中に、いつ金光様の先生をやめようか、いつやめようか、ここに出ておるような、そういうようなものとは全然違うんです。
 もうほんとに、たった3、40年前の話が、お道のあの新聞の中にすら、出、出ておったわけなんですけれども、ね、そういう難儀な中に喜びを感じておられる話がです、それこそ、今昔の(閑寂?)、と思うですね。50年前のお道の信心と、50年後の(今日?)の信心をここに、こう並べて見るような気がいたします。ね。
 ね、ほんとに真のご神徳に触れていきよりますとですね、ほんとにまちっと苦労がしてみたいっていうのを、ものが生まれてくるんです。ね。まちっと修行がしてみたいという気が起こってくるのです。ああ、いつになったらおかげが頂けるじゃろうかってようなものは生まれてこない。ね。
 そこんところをね、皆さんが頂いていく。ですから、今日の31節、32節、真の神徳に触れられるためには、ここを頂いた(けど?)、ここは、もう皆さんがいっつーも頂いておられないかん。ですから、今日の、皆さんに聞いて頂いたのはです、ね、もちろん、真の神徳を、おー、身につけていくということ。おー、「真の神徳を知らぬこと」とおっしゃる、そのことを申し上げたんですけれども(です?)。

 現在のお道の信心の中に、ね、おー、真の神徳に触れていけれる信心が、非常に、あの、薄くなってきた。それを、こう合楽では、まあ頂けれる頂けないは別として、もう口を開けたら、真の神徳に触れていくことのための御理解を、朝晩頂いておると、こう思うのです。ね。
 ですから、頂く頂けんの、(まだひとつ自分?)銘々の心一つですけれども、ね、それを受けようという、私は意欲のもとに信心が進められてまいりますなら、ね。信心(3つ?)の神徳を(?)。それこそ、(?)様、天地の親神様ならずとも、ね、例えばなら、(?)が神徳を受けて(?)ね、ここ合楽の中からしか(生めかしい?)ようなおかげに(もなってくる?)。そういうおかげでなからなければ、そういうおかげは(?)。ね。
 (すでに?)触れてきた(にもかかわらず?)、3つの、その3つのどれもが、(?)。結局、どういう中からでも、一番最後のご神徳に触れていくことのための精進(でなければならないと思うですね?)。